このチャンスを逃したら‥
自分のインスピレーションに従い
8ヶ月の準備を経て09年4月出発します!
支えてくれるすべての人に、感謝の気持ちを込めて
人のためになる旅を目指します!!
インド東部、バングラディッシュにかけて、サイクロンがあったそう
コルカタから135キロ離れた、sundrban という町が大きな被害にあい、
多くの家が崩壊した
僕の滞在するサダルストリート、という通りで
現地の若者と旅行者が、服や食べ物など、救援物資を集めるボランティアをしていたのが始まりだった
土曜日に出逢った、たださんのお誘いがあり
翌日、僕は彼らと一緒に、その救援物資を被害地に届けに行くことになった
翌日朝8時、迎えてくれたのは、小型トラック2台
インド人、旅行者総勢30人が後ろの荷台に乗り、一日が始まった
「狭い‥」
当たり前だけど狭かった
何てたってトラックだし、席なんてないしお尻痛いし、暑さで水なんてすぐにお湯になちゃった
ホント、牛や豚になった気分‥どこに連れていかれるのやら‥。
僕の不安な気持ちとは打って変わり、インド人のテンションは最高潮
後ろから付いてくる2台目のトラックは盛り上がりすぎて
何の意味もなく奇声を発していてる
僕は、前日のラビィのこともあり、気持ちが乗り切らなかった
この日、旅行者で日本人は僕だけ
でも、前日に知り合った
在日韓国人のゲンちゃん、
このボランティアで知り合った韓国人のハイリー、
アメリカ人のジョー
がいたので、不安はなかった
走ること4時間
徐々に町の様子も変わり始めた
水没した家々が見えてきた
でも目的の場所はここではないみたい
途中休憩で車が停止すると
「この車はどこへ向かうんだ?俺たちにも物資をわけてくれ!」
そんな感じで、人が一気に群がってきた
僕は、ここも十分ヒドい状態と思ったけど、
そこから更にボートをチャーターし、遠くへ向かうことになった
「ボートに乗るから1人100ルピー出してくれ」
と、リーダー各のインド人が言い出した
「急すぎる、聞いてない!」
僕はまた疑った。これもまた手口なんかもって
100ルピー(2$)は、ここではなかなかの額だし、旅行者15人ほど集まるとなかなかの額になる
欧米人の男性は
「そんなもの一言も聞いてないぞ。これはボランティアじゃないのか」だの、
「FU○K」だのって、かなりキレていた
確かにお金はかかるのは構わなかったが、伝えられたのが突然だったので、
信用しきれないまま僕たちは支払うことになった
みんな暑さと疲労で、イライラしているのを感じた
でも結果、ボートは貸切で5時間ほど乗っていたので、どうやら本当だった感じ
ボートは大きな川を左右の岸を進み、計6箇所のポイントへ向かった
そこには人がぎっしり集まっていて
みんな笑顔と必死な表情の混ざった複雑な顔で迎えてくれた
リーダーの支持で、きちんと列を作ってから順番に配布していった
それにしても強烈な光景
ビスケット3枚に、大人、子供関係なく必死だった
離れる際は、「本当にありがとう」
って、被害者の方の拍手と、大きく手を振りあって、次の目的地へ向かった
日も沈み始め、10時間が経過
さすがにヘトヘトで、水もないため
体力も限界に‥
ここが最後のポイント
着いた頃は、8時を過ぎようとしていたが
暗闇の向こうから、「やって来たぞー」と
こんなにも多くの人が待っていた
ビスケットをしっかり握る少年
言葉も交わさず、笑みも見せなかった
過酷だったんだと思う
帰宅したのは、午前0時
途中雨が振り、トラックは天井がないため、みんなでビニールシート大を持ち
しのぎながら何とか何とか帰ってきた
本当に疲れたけど
帰宅してレストランへ行って食べた、
おいしくないご飯と冷え冷えのコーラが最高だった
普通の生活ができるってホント幸せだなって思う
インドが予想以上に過酷だからか、このボランティアを通してだからか分からないけど
シートのある乗り物の
暑ければクーラー、扇風機
喉が渇けば、冷たい飲み物
お母さんが作る、おいしいご飯
今、すっごく普通の生活が恋しい\
また日本に戻れば、より快適を目指してしまうのかもしれないし、それでいいのかもしれない
ただ今は、ベストより、ノーマルな生活が恋しい
でも、ほんとに良い経験だった
100ルピーでたくさん経験できたし
日本では見られない光景だった
現地のテレビ局も取材にやって来ていた!
(僕ら旅行者より、インド人がメインに取材を受けていたのがウケた 笑)
この時期にコルカタにやって来て、これに参加できたのも何かの得んだと思うしホントに良かった
この翌々日からマザーハウスでのボランティアを開始!!
ここでも良い出会いがたくさんあった
また次回に